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高橋紹運公をご存知でしょうか?おそらく戦国ファンなら知ってる人も多いと思います。立花道雪と並ぶ大友家の家臣の武の両輪といっても過言ではない人物でしょう。また豊臣秀吉に「その武勇鎮西一、その忠義も鎮西一」と褒められた立花宗茂はこの人の実の息子で、道雪に請われ立花家に養子としていったものです。高橋紹運公の名を知らしめているのはやはりその壮絶な最後でしょう。耳川の合戦に衰退の激しい大友家は北上する島津家に対抗するため豊臣秀吉に援軍を請います。それで行われたのが豊臣秀吉の九州征伐です。秀吉の援軍が到着する前に一気に九州を統一しようと考えた島津軍は、1586年この地に5万の大軍を送り込みます。対する岩屋城の守備兵はわずか736名。高橋紹運は度重なる降伏勧告も拒否し、勇猛果敢に戦いこの圧倒的な戦力差にも係らず、半月もこの地を文字通り死守します。守備兵は全員玉砕、紹運の最後は切腹し腸を相手に投げつけたと伝えられています。島津軍はこの戦いで実に4,500名の死者をだし、立花宗茂の守る立花山城を秀吉到着までに落とすことができず、退却することになりました。この功績により立花宗茂は柳川13万石の大名になりました。なお立花宗茂は関が原の合戦で一度浪人になりましたが、その後大阪の陣で豊臣方に参加しなかったとの功より、柳川11万石の大名として返り咲いています。返り咲いた大名は宗茂ただ一人です。
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